心のままに直感を信じて生きる(生きるコント2/大宮エリー)
大宮エリーさんの「生きるコント2」に出てくるのが、「心のままに直感を信じて生きれば、びっくりするくらい幸せになれますよ」という言葉。
日々懸命に働いてきたけれど、ふとした瞬間に、いったい何のために仕事しているんだろうと思う時がある。
自分の成長のため…?いや、違う。
自分のためだったら、こんなにいやなことを我慢し続けたりはしない。
仕事をすることが、生きるうえでのスタンダードであるとどこかで思い込んでいたから。
仕事をせずにいることが悪いことのように植え付けられていたから。
幸い、会社員である私のやっている仕事は誰だってできる。
代わりはいるし、誰にでもできる仕事を苦しみながらやってることを冷静に考えて滑稽に思ってしまった。
誰にでもできる仕事を努力して、人並みにできるように頑張ることはこれまでさんざんやってきた。
でも、長い時間をかけてこの会社で使い勝手のいい人間には仕上がってきたのかもしれないけど、最も大切な自分にしかできないことを探すことをおろそかにしすぎてきた。
誰にでもできる仕事であれば、私自身が同じようにできるように七転八倒する必要はない。
自分にしかできないことを模索し、それに向けて努力し、人に喜んでもらえることに主軸を向けていきたい。
お前はまだ若い、なんとか救ってやりたい(森絵都/カラフル)
森絵都さんのカラフルは私の人生になくてはならない大切な本だ。
今まで何度も読んできたし、これからも何度も繰り返し読み続けることは間違いない。
今、生きるのが辛いなーしんどいなーと思ってる人は手に取ってみてほしい。私自身、もう生きるのなんてウンザリだと思ってしまう時、必ず読み返してきた。
カラフルは読むときの自分の状態で、心を揺さぶられるところが変わる。
初めのうちは、中学生の主人公真目線で物事を見ていたが、社会人になってしばらくして、今度はお父さんの方がすんなりと感情移入できることに驚いた。真は視野が狭いなー、大人になったらそうは言ってられないよーと読了することもあった。
今回読み直してみて、またこの本の新たな素晴らしさに気がつくことができた。すごい本だということはすでにわかっているつもりだし、魅力を知り尽くしてると思っていたけど、やっぱり読み返すごとに新たな発見があると感じた。
今まで気にすることもなかったお父さんの言葉に今回ひどく心を打たれた。
『お前はまだ若い、なんとか救ってやりたい、とできるかぎりのことをしてくれた』
話の流れからすると、さほど重要な言葉ではなく、状況を説明してるにすぎないので、これまでは何も感じることなく読んでいた。
だけど、『お前はまだ若い、なんとか救ってやりたい』というのは作者の森さんがこの本を書いた理由なんじゃないかと思えたのだ。
この本は死生観に関する話が出てくる。だから、私は森さんがこの本に込めたメッセージをずっと知りたかった。
それは読者自身が、導き出すものかもしれないけど、私は宝物の本だからこそ、本当のところはどうなのか聞きたくて仕方なかったのだ。
これまで読んできた中で、カラフルというタイトルにいろんな想いが詰められているんだと解釈していた。
それはまちがいないのだけど、その先にある想いみたいなものを知りたかったのだ。
今回読んで、お父さんの
『お前はまだ若い、なんとか救ってやりたい』
が森さんがこの本を書いた答えのような気がした。
そして、私もこの本を読むことで本当に救われてきた。
受験に失敗した時、就職が不安でいっぱいだった時、恋人と別れた時、人間関係に疲れた時。
折に触れて読み返し、そのたびにパワーをもらえたのは、森さんの『お前はまだ若い、なんとか救ってやりたい』という気持ちが、この本に込められているからだとわかった。
生きている意味がわからない、毎日辛く苦しいことばかりでどうしたらいいかわからない と思う若い人は多いと思う。そんな人はぜひこの本を読んでほしい。
私も30年以上生きてきてなお、生きている意味が全くわからず、辛く苦しいことばかりの人生にがっかりすることばかりである。
でもお父さんが、『あの一瞬の喜びは、それまでのすべてを清算してあまりあるものだったよ』と言っている。今はまだわからないけど、何十年と積み重ねてきた年月の中で、これまでの辛く苦しい想いを全てを清算してあまりある喜びが待ってるんだと思う。
それがくるのはいつかわからない。寿命が尽きる直前かもしれないし、あと10分後かもしれない。
だから辛く苦しいと感じながらも、私は本を読みながら、これまで進んで来れたのかもしれない。
改めて、カラフルという偉大な本に出会えてよかったと思うし、この本を全ての人に読んでほしい。
使ったお金がその人の一部をつくる(しあわせのねだん/角田光代)
角田光代さんの「しあわせのねだん」という本が好きで、何度も再読してきた。
20代に使ったお金お金がその人の一部をつくる。
という言葉が印象的だった。
アラサーになり、20代で使ったお金が私の何になっているのか考えてみた。
20代はとにかく海外のいろんなところに旅行に行っていた。
旅行に行くことを楽しみに仕事をしていた。
間違いなく海外旅行にはお金をかけてきたと思う。
海外旅行に行ったことが何か目覚ましく私の人生に影響しているかと言われれば、そんな大したことはない。(笑)
だけど、先輩と海外旅行の話をしたときに、そんなにいろんなところに行ったことあるの!と驚かれた。
だから、人よりはいろんな国に行く機会に恵まれていたんだろう。
コロナが関係ないんだとしたら、海がきれいなところゆっくりしたいならあの国、買い物や美味しいものを食べたり少し都会的なところならあの国、何もしたくないから、ただただ癒されたいならあの国 とその時々の自分の状態で行きたい国が思い浮かぶ。
それが何かの役に立つかは正直わからない。
でも、20代で使ったお金は確かに自分の一部になっているなとは思う。
海外旅行のほかに20代の時にお金をつかったのは本代。
いろんな本に触れて、大きな影響を受けてきた。
だから、落ち込んだり、悩んだりしたときに、自力で這い上がれるように、お気に入りの本はいつも本棚にそろえてある。
本当に社会人をやっていると、ありとあらゆることに落ち込む。
でも正直、リアルタイムで話しを聞いてくれる友達なんていない。
いたとしても、話を100%理解してもらうのは難しいと思うのだ。自分のことやその周辺で起きていることはやっぱり、当事者の自分以外には6割くらいしか伝わらないと思う。
そんな時に、本は救ってくれる。
失敗したり、失恋したり、その他ありとあらゆる落ち込みに対して、万能に対応してくれるのが本を読むことだと思う。
正直、読書家の人に比べれば、読んできた本の数は圧倒的に少ないし、偏っていると思う。だけど、自分を救ってくれた本には感謝の気持ちしかない。
だから、noteでも恩返しのつもりで読書の感想をつづってきた。
そう考えると確かに本も私の一部になったと言えると思う。
30代の今使っているお金は40代でどのように生きてくるんだろう。
正直、今やりたいことは、コロナ禍でどこにも行けないので、家を自分のオアシスにしたいということ。
在宅勤務の環境は完璧に整い、もはや、会社のデスクよりも快適になった。
だから、今度は実生活の部分の天国レベルくらいにしていくことが野望だ。
100年先も残る文章を書きたい。表現をしたい。
とんでもない夢かもしれないですが、正直、私はものを書いたり、何かを表現することで生計をたてていきたいと思ってます。
私自身、今までのたうち回りながら生きてきました。
ずーっと生きづらいと思っていました。
学校に行けば、友達を作るのに苦労し、大学受験は失敗し、社会人生活はすべてのことに七転八倒してきました。
みんな自分と同じように苦しんでいると思っていたのに、あれ、なんか違くないか…?と高校生くらいから気が付き始めました。
周りを見渡すと、私が苦しみながらやっていることを、息を吸うようにたやすくやってのけて、楽しそうに生きている人達が多いなと気が付いたのです。
あー、苦しんでるのは私だけなのかもしれないと思ったとき、これ、あと何十年続くんだ…と絶句したことをよく覚えています。
みんな学校へ行けば、仲のいい友達をつくり、自分のやりたいことを勉強し、社会人生活をそつなく要領よくこなす。
苦しまずにいろんなことができる人達は、七転八倒せずに、生活を送れると思います。だけど、私には、定年まで歯を食いしばって他の人と同じような生活を送っていくのはどう考えても現実的じゃないなと思ったのです。
何も考えずにこれまでと同じような生き方していたら、もうね、絶対に後悔すると思ったのです。
もう、自分の人生を生きていきたいと心の底から思うようになりました。
今までもnoteやはてなブログでいろんなことをつづってきました。
読んでくださる人がいることがひたすらありがたく、うれしいです。
生きづらいと思った私が救われた本とか映画とか言葉とかその他雑記とかを徒然なるままにつづっています。
だけど、自分がつづっている文章って、果たして百年後も読むに値するものなのかとふと思ったときに、愕然としました。(笑)
当たり前だけど、今この瞬間だけのものを書いていたんだなーと。
人の心を大きく揺さぶるものや、感動させるものは書いていなかったなーと。書ける実力があるかどうかもわかりませんが、2021年、新しい時代に新しいことを挑戦してみたいと思っています。
清少納言の枕草子の春はあけぼの~は高校時代に古文の授業で勉強しました。古文は必須科目から外してもいいのでは?という意見もあるようで、もしかしたら、今後、若い人達が目にする機会がなくなってしまうのかもしれないのですが、私は枕草子のあの冒頭の文章、とても美しと思います。
正直、高校のころはよく分からなかったのですが、年取るにつれて、しみじみといいなーと思うようになりました。
そんな風に時代が変わっても人の心を打つような美しい文章を書いたり、表現をしていきたいです。それを目標として、これからも文章を書き続けていきたいです。(とはいえ、日記のようあ雑記を書くのも好きなので、引き続き書き続けると思いますが。笑)
鬼滅の刃のようにブームになって欲しい(横道世之介/吉田修一)
最近、スマートフォンの充電の減りが早く、ちょっとした電車の移動時間が手持ちぶさたになってしまうので、本を持ち歩いて読むようにしています。
今も昔もずっと好きで定期的に読み返している吉田修一さんの「横道世之介」を移動のお供にしていたのですが、久々だったので没頭しすぎてしまい、家に帰ってきてからもずっと読んでいて、その日のうちに読破してしまいました。
電車の中で、笑いを堪えきれず、普通に肩を震わせて笑ってしまうシーンがたくさんありました。
本が好きな人はもう何度も再読されている方もいると思うのですが、横道世之介は以下に当てはまる人におすすめです。おすすめどころの話ではなく、お金払って本買ってあげるから、読んでみて!という心待ちですべての人に読んでほしい本です。(笑)
鬼滅の刃が話題になっていますが、個人的には世之介もブームになってほしいのです。誰もが世之介の本が家にあるような世界になってほしいのです。(笑)
・本が好きな人
・読書してみたいけど、どの本を読めばいいかわからない人
・読書は面倒くさいけど、暇なので、何か面白いことないか探している人
(世之介は映画されているので、まず映画⇒本もおすすめです)
・友達がいなくて寂しい思いをしている人
・学生時代、あまりいい思い出がないけど、疑似体験したい人
・友達が欲しい人
上のいずれかに当てはまる人は世之介を読んでみてほしいのです!
私は友達が少ないですし、学生時代もキラキラした青春を謳歌したタイプではないのですが、世之介を読んで以来、なんだか、長い間一緒にいた友人を得たような気分になりましたし、楽しく面白い学生生活を疑似体験できたような気持になりました。
そして、自分の人生は世之介に出会えた人生でラッキーだったと心の底から思います。逆に世之介に出会えなかった人生を想像すると、すごく損している気がするのです。
本も大好きですが、映画も観終わった後の余韻が凄まじいです。
とにかく全ての人に読んで欲しい、観て欲しい作品です。読んで、観て損したという人は絶対にいないと私が保証します。
【読書のススメ】生きててよかったと思える読後感
最近は久方ぶりの恋愛に大半の時間を注ぎ込んでしまい、めっきり読書は再読本ばかりだったけれど、本を読まねばと思わせてくれた一冊。
話題になっていたライオンのおやつ を遅ればせながら読んだ。
生きることがしんどいと思ったことは数え切れないほどたくさんある。
だけど、それは身体が自由に動き、健康であることに慢心していたせいなのかもしれないと初めて思った。
主人公と歳が近く、生きることがルーティン化していた私には、ハッとさせられることがたくさんあった。
自分らしく生きたいとずっと思っていた。
だけど、振り返ってみると人の評価を気にしてばかりでプライドの高い人間に成り下がってた。
実力以上のステータスは、まぐれなのにも関わらず、驕り高ぶって、本当に嫌な人間が自分自身であることに落胆した。
本当の私は弱虫だし、才能なんてない。
周りの人の力と運だけでここまできたことに感謝しなくてはいけないと思ったし、これから先の人生、背伸びして自分を大きく見せるのはやめようと痛感した。
誰になんて思われてもいいから自分にしかできないことをやろうと思う。
このままの人生を続けてたら後悔するのは目に見えている。
うんざりしながら、生活のために、嫌な仕事を歯を食いしばりながら耐えてる。
誰のために働いているかと言われたら、納税するためとしか答えられない。
働くことが正しいと洗脳されてるロボットみたいな生き方。
いい学校を出ていい会社に入ることがなぜいいことなのかと言われれば、そうすれば日本にとって都合がいいから。
結果、今立ってる場所は居心地も微妙だし、私自身が幸せだと感じられない。
なーんか間違えてた。大幅に。笑
それは洗脳されてたから仕方ないか。
人生の軌道修正をしようと思う。
人間なのに、自分らしさもなく、量産型のロボットみたいな生き方はこれでおしまい。
気が付けてよかった。
生きててよかった。
これからは自分らしく生きる。
【読書のススメ】ひとりぼっち(いつかパラソルの下で/森絵都)
アラサーになるとお一人様も板についてきて、ひとりでどこへでも行けるようになった。
ひとり居酒屋もひとり海外旅行もひとり映画も。
朝起きて仕事に行って、帰ってきて。
休日はひとりであちこち出かけて。
たまに友達とご飯に行ったりして。
この無限ループが私の人生なのだと思っていた。
こうやって年を重ねていくことを受け入れようと思っていた。
最近、渡辺直美さんがYouTubeで一緒にご飯を食べようという動画をあげていた。
試しに一緒にご飯を食べてみてたのだけど、とても楽しかったのだ。
会社から帰ってきて、いつもひとりでご飯を食べるのが当たり前だったけど、思いがけず、ひとりではないと思わせてくれた。
きっと、自粛になる前にも同じようにひとりぼっちだと感じる人がたくさんいたと思う。
私のように独身でいる人や学校へ行けない人などなど。
そういう人にとって、ひとりじゃないと思わせてくれる動画はなんだか観ていてほっとするし、元気が出る。
会ってくれる友達がたくさんいる人も私のような独身お一人様も今は同じ状況下にいるのが不思議に感じるけど、森絵都さんの『いつかパラソルの下で』という大好きな小説の一説を思い出した。
愛しても、愛しても、私自身はこの世界から愛されていないような、そんな気が心のどこかでいつもしていた。
受け入れても、受け入れても、私自身は受け入れられていない気がしていた。
(中略)
けれどもそれは自分自身のせいでなく、なべて生きるというのは元来、そういうことなのかもしれない、と。
(中略)
人は等しく孤独で、人生は泥沼だ。
愛しても愛しても愛されなかったり、受け入れても受け入れても受け入れられなかったり。
それが生きるということで、命ある限り、誰もそこから逃れることはできない。
人は等しく孤独であるということの意味を正しく理解するにはまだ時間がかかりそうだけれど、大好きなこの一説はこれからもずっと大切にしていきたい。